最近、日本語で書いたものを英語でも書くようになって気づいた。
日本語って、主語があいまいだ。
「行ってきた」「思う」「そうなんだよね」——
誰が?って聞きたくなるような文が、会話の中では普通に成立してしまう。
いわゆるハイコンテクスト言語の性質だ。
英語だと、何を言うにも “I” が必要になる。
I think. I feel. I want.
その小さな “I” が、感情や考えをちゃんと自分のものにしてくれる。
でも日本語では、それを言わなくても会話が続く。
言わないほうが、むしろ自然にすら感じる。
「私」が環境で変わる言語
日本語には、ひとりの人間の中にいくつもの“私”がいる。
場面によって、「僕」「わたし」「うち」「自分」——と変わる。
職場では「私」なのに、友達の前では「うち」、恋人には「俺」。
そのたびに、人格の輪郭も少しずつ変わっていく。
つまり日本語は、使う環境によって“自分”の形が変わる言語なのだ。
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だから、人との距離感も曖昧になりやすい。
たとえば「日焼け止め貸して」と言われたとき。
英語だと Can I borrow your sunscreen? と言うけれど、
「borrow(借りる)」には“返す”が前提として含まれている。
でも日本語の「貸して」には、返すかどうかの線引きがない。
「ちょっと使うくらいだと思って貸したら、丸ごと持っていかれた」なんてことが起こる。
借りるほうも「少しぐらい、いいでしょ?」という空気で受け取っている。
お互いに悪気はない。
けれど、そこには境界のあいまいな言語の習慣がある。
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日本語では「これはあなたの」「これは私の」という線を、はっきり引かない。
「みんなのもの」「場の空気で決まる」が基本。
だからこそ優しい面もある。
でも同時に、気づかないうちに他人の領域に踏み込んでしまうこともある。
そして、踏み込まれた側も「嫌だ」と言えない。
我慢して、我慢して、ある日、突然ブチ切れる。
「我慢できる子」が育てられる国
日本の教育って、最初から“境界を持たない練習”みたいなところがある。
たとえば給食。
「嫌いなものも食べなさい」「残さず食べなさい」って言われて育つ。
お腹がいっぱいでも、口に合わなくても、食べるまで席を立てない。
もちろん“健康のため”“食べ物を大事に”という建前はある。
でも実際には、自分の感覚よりも集団のルールを優先しなさいという訓練だ。
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「もういらない」「やめたい」「これは無理」と言うことが、
“わがまま”や“悪い子”になる。
そうやって、自分の身体の感覚よりも「みんなと同じ」が勝つように育つ。
それを繰り返しているうちに、
自分の“嫌”というサインを感じても、
「でも言っちゃいけないよね」と自動的に抑えるようになる。
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そしてもうひとつのキーワードは、「途中でやめられない」。
日本では、小さいころから「最後までやり遂げなさい」「途中で投げ出すな」と言われ続ける。
一見いい言葉だけど、
実は「やめる」という選択を罪のように感じるようになる。
部活でも、塾でも、仕事でも、
「もう無理」と感じても我慢するのが普通になる。
「休む」と言うより「倒れる」までやる。
「離れる」と言うより「壊れる」まで我慢する。
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それで心が限界を越えて、ある日、ブチっと切れる。
怒りという形でしか、境界を取り戻せなくなる。
私たちは、我慢の先にある「怒り」しか、境界を感じる方法を知らない。
でも本当は、そのずっと手前で——
「自分は今、傷ついた」と言える言葉を持てたらいい。
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日本の教育は“協調”を教えるけど、“距離の取り方”は教えない。
「助け合おう」はあるけど、「自分を守ろう」はない。
その結果、優しいけれどすぐに疲れる人が増える。
“人の気持ちが分かる”と言われながら、
本当は“自分の気持ちが分からない”まま大人になる。
「私は悲しかった」と言えるまで
人と関わって傷つくことは、誰にでもある。
でもそのとき、日本語ではなかなかうまく言葉にできない。
「なんかショックだった」「モヤモヤする」「ちょっとつらい」——
そう言うときも、どこか主語が抜け落ちている。
誰が、どんなふうに傷ついたのかが、はっきりしない。
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だから後から、「あのとき私、けっこう傷ついてたんだ」と気づく。
その“気づき”が、実はとても大事なんだと思う。
心理学でも、「私は気づいた」と主語を明確にして話すことで、
感情が整理されると言われている。
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英語だと “I felt hurt.” と言う。
その “I” があるだけで、感情の責任が自分に戻る。
怒りや悲しみを、誰かのせいではなく“自分の経験”として扱える。
でも日本語では、「悲しい」「ムカつく」だけで通じてしまう。
だから、“自分の感情を自分のものとして扱う”感覚が育ちにくい。
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「私は悲しかった」って、言葉にするだけでも少し勇気がいる。
でもそれを言えた瞬間、自分の境界線が戻ってくる。
もう相手の反応や空気に流されずに、
「これは私の気持ちだ」と線を引ける。
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たとえば友達とのすれ違いで傷ついたとき、
「あなたが悪い」と言うと、相手は守りに入る。
でも「私は悲しかった」と言うと、
責めるでもなく、黙るでもない伝え方になる。
相手がどう受け止めるかは相手の自由。
けれど、自分の感情は自分の手に戻る。
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日本語は、やさしく混ざり合う言語だ。
だからこそ、あいまいなままでも生きていける。
けれど、混ざり合うことと、溶けてなくなることは違う。
「私は気づいた」と言うことで、
やっと人とのあいだに、やさしい境界線が引ける。
怒りは、境界を取り戻すための言葉
「日本人は突然ブチ切れる」とよく言われる。
でも本当は、突然ではない。
長い我慢の果てに、ようやく“自分”が出てくる瞬間だ。
日本では、怒ることは悪いこととされている。
「感情的」「大人げない」「空気が読めない」と言われる。
だから、怒りを抑えるのが上手くなる。
でもそれは、“自分を消すのが上手くなる”ことでもある。
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怒りは、本来「ここまでは無理」「これ以上はやめて」というサインだ。
つまり、自分の境界を守るための言葉。
英語なら “That’s not okay.” と言える場面でも、
日本語では「まあ、いいか」「気のせいかも」で流してしまう。
その小さな違和感を放っておくうちに、
境界がどんどん侵食されていく。
そして限界を越えたとき、ようやく怒りが出る。
それが“ブチ切れ”と呼ばれているだけだ。
本当は、「怒り」は自分の輪郭が戻る瞬間なのに、
社会はそれを“迷惑”や“感情的”として押し込める。
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怒りが悪いのではなく、
怒りまで我慢しなきゃいけない社会が、
私たちを不器用にしている。
我慢の末に爆発するより、
そのずっと手前で「私は嫌だ」「私は悲しい」と言えるほうがいい。
怒りを出すことは、壊すことではなく、
もう一度、自分を取り戻すことだ。
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もしかしたら、これからの日本語には、
もっと「私は」を増やす必要があるのかもしれない。
「みんなの空気」ではなく、「自分の感覚」で話すために。
「怒り」は、境界線を引き直すための最初の言葉だ。
静かな声でもいい。
震えていてもいい。
「私は、もう無理だった。」
その一言から、ようやく人と対等になれる。
終わりに
日本語は、やさしい言語だ。
だからこそ、傷つけもする。
溶け合うことを美徳としてきたこの社会で、
私たちはいま、「混ざり合いすぎた“私”」を
もう一度取り戻そうとしているのかもしれない。
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©️DSH / 2025
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