2025/10/12

日本人が急にブチ切れると言われる理由 — 境界線なき言語

最近、日本語で書いたものを英語でも書くようになって気づいた。

日本語って、主語があいまいだ。

「行ってきた」「思う」「そうなんだよね」——

誰が?って聞きたくなるような文が、会話の中では普通に成立してしまう。

いわゆるハイコンテクスト言語の性質だ。


英語だと、何を言うにも “I” が必要になる。

I think. I feel. I want.

その小さな “I” が、感情や考えをちゃんと自分のものにしてくれる。

でも日本語では、それを言わなくても会話が続く。

言わないほうが、むしろ自然にすら感じる。


「私」が環境で変わる言語


日本語には、ひとりの人間の中にいくつもの“私”がいる。

場面によって、「僕」「わたし」「うち」「自分」——と変わる。

職場では「私」なのに、友達の前では「うち」、恋人には「俺」。

そのたびに、人格の輪郭も少しずつ変わっていく。

つまり日本語は、使う環境によって“自分”の形が変わる言語なのだ。



だから、人との距離感も曖昧になりやすい。


たとえば「日焼け止め貸して」と言われたとき。

英語だと Can I borrow your sunscreen? と言うけれど、

「borrow(借りる)」には“返す”が前提として含まれている。


でも日本語の「貸して」には、返すかどうかの線引きがない

「ちょっと使うくらいだと思って貸したら、丸ごと持っていかれた」なんてことが起こる。

借りるほうも「少しぐらい、いいでしょ?」という空気で受け取っている。


お互いに悪気はない。

けれど、そこには境界のあいまいな言語の習慣がある



日本語では「これはあなたの」「これは私の」という線を、はっきり引かない。

「みんなのもの」「場の空気で決まる」が基本。

だからこそ優しい面もある。

でも同時に、気づかないうちに他人の領域に踏み込んでしまうこともある

そして、踏み込まれた側も「嫌だ」と言えない。


我慢して、我慢して、ある日、突然ブチ切れる。


「我慢できる子」が育てられる国


日本の教育って、最初から“境界を持たない練習”みたいなところがある。


たとえば給食。

「嫌いなものも食べなさい」「残さず食べなさい」って言われて育つ。

お腹がいっぱいでも、口に合わなくても、食べるまで席を立てない。


もちろん“健康のため”“食べ物を大事に”という建前はある。

でも実際には、自分の感覚よりも集団のルールを優先しなさいという訓練だ。



「もういらない」「やめたい」「これは無理」と言うことが、

“わがまま”や“悪い子”になる。

そうやって、自分の身体の感覚よりも「みんなと同じ」が勝つように育つ。

それを繰り返しているうちに、

自分の“嫌”というサインを感じても、

「でも言っちゃいけないよね」と自動的に抑えるようになる。



そしてもうひとつのキーワードは、「途中でやめられない」。

日本では、小さいころから「最後までやり遂げなさい」「途中で投げ出すな」と言われ続ける。

一見いい言葉だけど、

実は「やめる」という選択を罪のように感じるようになる。


部活でも、塾でも、仕事でも、

「もう無理」と感じても我慢するのが普通になる。

「休む」と言うより「倒れる」までやる。

「離れる」と言うより「壊れる」まで我慢する。



それで心が限界を越えて、ある日、ブチっと切れる。

怒りという形でしか、境界を取り戻せなくなる。


私たちは、我慢の先にある「怒り」しか、境界を感じる方法を知らない。

でも本当は、そのずっと手前で——

「自分は今、傷ついた」と言える言葉を持てたらいい。



日本の教育は“協調”を教えるけど、“距離の取り方”は教えない。

「助け合おう」はあるけど、「自分を守ろう」はない。

その結果、優しいけれどすぐに疲れる人が増える。

“人の気持ちが分かる”と言われながら、

本当は“自分の気持ちが分からない”まま大人になる。


「私は悲しかった」と言えるまで


人と関わって傷つくことは、誰にでもある。

でもそのとき、日本語ではなかなかうまく言葉にできない。


「なんかショックだった」「モヤモヤする」「ちょっとつらい」——

そう言うときも、どこか主語が抜け落ちている。

誰が、どんなふうに傷ついたのかが、はっきりしない。



だから後から、「あのとき私、けっこう傷ついてたんだ」と気づく。

その“気づき”が、実はとても大事なんだと思う。

心理学でも、「私は気づいた」と主語を明確にして話すことで、

感情が整理されると言われている。



英語だと “I felt hurt.” と言う。

その “I” があるだけで、感情の責任が自分に戻る。

怒りや悲しみを、誰かのせいではなく“自分の経験”として扱える。


でも日本語では、「悲しい」「ムカつく」だけで通じてしまう。

だから、“自分の感情を自分のものとして扱う”感覚が育ちにくい。



「私は悲しかった」って、言葉にするだけでも少し勇気がいる。

でもそれを言えた瞬間、自分の境界線が戻ってくる。

もう相手の反応や空気に流されずに、

「これは私の気持ちだ」と線を引ける。



たとえば友達とのすれ違いで傷ついたとき、

「あなたが悪い」と言うと、相手は守りに入る。

でも「私は悲しかった」と言うと、

責めるでもなく、黙るでもない伝え方になる。


相手がどう受け止めるかは相手の自由。

けれど、自分の感情は自分の手に戻る。



日本語は、やさしく混ざり合う言語だ。

だからこそ、あいまいなままでも生きていける。

けれど、混ざり合うことと、溶けてなくなることは違う。


「私は気づいた」と言うことで、

やっと人とのあいだに、やさしい境界線が引ける。


怒りは、境界を取り戻すための言葉


「日本人は突然ブチ切れる」とよく言われる。

でも本当は、突然ではない。

長い我慢の果てに、ようやく“自分”が出てくる瞬間だ。


日本では、怒ることは悪いこととされている。

「感情的」「大人げない」「空気が読めない」と言われる。

だから、怒りを抑えるのが上手くなる。

でもそれは、“自分を消すのが上手くなる”ことでもある。



怒りは、本来「ここまでは無理」「これ以上はやめて」というサインだ。

つまり、自分の境界を守るための言葉

英語なら “That’s not okay.” と言える場面でも、

日本語では「まあ、いいか」「気のせいかも」で流してしまう。


その小さな違和感を放っておくうちに、

境界がどんどん侵食されていく。


そして限界を越えたとき、ようやく怒りが出る。

それが“ブチ切れ”と呼ばれているだけだ。


本当は、「怒り」は自分の輪郭が戻る瞬間なのに、

社会はそれを“迷惑”や“感情的”として押し込める。



怒りが悪いのではなく、

怒りまで我慢しなきゃいけない社会が、

私たちを不器用にしている。


我慢の末に爆発するより、

そのずっと手前で「私は嫌だ」「私は悲しい」と言えるほうがいい。

怒りを出すことは、壊すことではなく、

もう一度、自分を取り戻すことだ



もしかしたら、これからの日本語には、

もっと「私は」を増やす必要があるのかもしれない。

「みんなの空気」ではなく、「自分の感覚」で話すために。


「怒り」は、境界線を引き直すための最初の言葉だ。

静かな声でもいい。

震えていてもいい。


「私は、もう無理だった。」


その一言から、ようやく人と対等になれる。


終わりに


日本語は、やさしい言語だ。

だからこそ、傷つけもする。

溶け合うことを美徳としてきたこの社会で、

私たちはいま、「混ざり合いすぎた“私”」を

もう一度取り戻そうとしているのかもしれない。


———

©️DSH / 2025

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