2025/08/02

「デカチン型タワマンと、美容整形された都市に残る文化の死臭、そしてタワマン文学の暴力」

「再開発」という言葉が、こんなにも静かに殺していくとは思わなかった。

タワマンが立つたびに、街の記憶が一つずつ葬られていく。

あの路地はどうなるんだろう。

あの古い銭湯は? 八百屋は? 鍵屋は?

きっともう、戻ってこない。

気づけば街は“きれいな未来”にすげ変わって、私たちの“生活の記憶”だけが風化してる。


スタバ、タリーズ、マルエツ、DAIKANYAMA T-SITE。

タワマンのふもとに並ぶのは、チェーンの文化と金持ち向けの商業モドキばかり。

街ってこんなに「無菌」だったっけ?


ふと、昔の道を歩いて思い出す。

曲がり角の先にあった“気配”。

それが全部、ガラスと監視カメラに置き換わっていく。

再開発って、建物を変えるんじゃなくて、「記憶の取り壊し」なんじゃないかと思う。


私が嘆いても、都市はどんどんタワマンの顔になる。

“清潔な未来”に見せかけた、資本主義の美容整形。

その下に埋められた生活と情緒とノイズのことを、

誰かが書いておかなきゃと思って、いま私はこれを書いている。


【税金でできる文化破壊──補助金で殺される情緒】


タワマンって、個人が勝手に建ててると思ってる?

調べるとわかるけど、あれって**税金がガンガン使われてる“公共事業の皮をかぶった利益装置”**だ。


例えば、公園を一緒に設計すると都市再生整備計画事業費という名目で国から補助金が出る。

“緑豊かな未来の街”とか“誰もが安心して暮らせる環境”とか、聞こえのいいスローガンの裏で、

地元の商店や文化は、誰にも見送られずに葬られていく。


もっと言えば、ショッピングモールや商業施設をセットで建てることで、

「地域経済への貢献」「雇用創出」という名目もクリアする。

でも実際はどう? 生まれてるのは非正規のバイトばかりで、

昔ながらの八百屋や飲食店は、家賃が払えなくなって出ていく。


補助金は出る。文化は死ぬ。

タワマンの光の下で、生活の記憶だけが置き去りにされていく。


しかもそのお金、全部私たちの税金だ。


なにが「公共性」だよ。

それは誰にとっての?


「“きれいな街”をつくるために、汚れた部分は切除します」って、

それってまるで、都市の美容整形じゃないか。


私は思う。

タワマンが建つとき、文化は静かに駆逐される。

そして、それを可能にしているのは、国家の補助金制度だ。


【“きれい”の裏側にある排除──都市整形の暴力性】


タワマンの足元にあるのは、公園とショッピングモールとセキュリティゲート。

でも、私が知っていたあの街は、

曲がり角のたばこ屋と、夕方になると道路にイスを出してたおじさんたちと、

路地裏で鳴ってたスナックのカラオケでできてた。


それが今、「きれいな街づくり」の名のもとに消されていく。

都市は、“生活の雑音”をノイズとして処理するようになった。


怪しいカフェ、雨ざらしの公衆電話、猫のたまり場、

そういう「ちょっと変で、ちょっと汚いもの」が文化を育てていたのに、

今はそれが“価値を下げるもの”として排除されてる。


景観、治安、衛生、安全。

すべて“もっともらしい暴力”の口実になる。


文化って、むしろ“過剰”とか“ちょっと不健全”な場所に生まれるのに、

今の都市は、「正しさ」と「清潔感」で、すべてを覆い隠していく。

そこにはもう、裏口も抜け道もない。

あるのは階級によって仕切られた空気と、ガラスの反射だけ。


都市に“清潔”が求められるたびに、

人間の“汚さ”や“不均衡”は排除される。


だが、私たちの生活そのものが、税金で整えられた人工楽園の上に建てられているのなら、

その“公園”は、ホームレスにも、子どもにも、腐った大人にも、開かれていなければならないはずだ。


税金が使われているなら、誰がいてもいい。

もし私がホームレスになったら、あの人工芝の上で野宿をする。

居座り警官の視線には、尿意と怒りで応えるつもりだ。


それが、わたしなりの”都市への参加”である。


【そして排除されるのは、誰か】


「治安が悪い」「貧乏くさい」「不潔」

こういう言葉で切り捨てられてるのは、

場所じゃなくて、**そこに生きてた“人間そのもの”**なんだと思う。


私は街の一部だったはずの風景から、

自分が見えなくなっていく感覚を何度も味わった。

そしてそれを、「これが発展なんだよ」と言われてしまう絶望。


【タワマン文学という名の麻酔──笑いの裏で忘れられる都市の死】


タワマンって、今やネタにされてる。

ママ友のマウント合戦、エレベーターの乗り合わせバトル、

お受験戦争、タワマン階層マウンティング──

そんな“地獄めいた日常”を面白おかしく書いたツイートがバズり、

いくつかは**「タワマン文学」として書籍化までされている。**


たしかにちょっと笑える。

でも、私のなかに残るのは別種の薄ら寒さだ。

このバズのどこにも、「なぜタワマンが建ったのか」「なにが壊されたのか」がない。

笑いが“都市整形のプロパガンダ”を上塗りしてしまってる。


本来、タワマンは“誰かの生活の上に乗って建っている”。

その誰かは、もうSNSにも、文学にも登場しない。


文化が死んだことを、誰も記録しないまま、

“消費される舞台装置”としてのタワマンだけが生き残っていく。


もちろん、タワマン文学にも意味はある。

でも、笑いとして消費されることで、本来の問いは忘れられていく。


【 そこに住む人たちは悪くない】


タワマン住民がおかしいんじゃない。

悪いのは、あたかもそれが“ステータス”であり“成功”であり“理想の生活”であるかのように

都市をプロデュースし、補助金を吸い、メディアでプロパガンダしてきた企業と政策だ。


でも、笑いに変えられたものは、もう問題提起としては扱われない。

つまり、“笑わせれば勝ち”の構図になってる。


【住むことで“笑われる側”にされる──タワマン文学のもう一つの暴力】


タワマン文学がバズっていた。

読者は、マウント合戦にハマる主婦を笑い、

階数による格差、お受験戦争、地方出身のエリートサラリーマンの哀しみにニヤつく。


でもその本を手に取って笑ってる人のほとんどが、

タワマンに住めない側の人たちじゃないか?


あれは“ああいう暮らしをしてる人を笑っていい”という免罪符じゃない。

むしろ、「そうじゃないあなた」が、

この都市の本質から目を逸らすために使われてる。


誰かを笑えば、自分はマシだと思える。

でもその隙に、もっと根深い搾取があなたの足元を掘っていく。


君がタワマンを笑ったとき、

その足元から消えたのは「誰かの暮らし」だったかもしれない。

それを忘れて、何がユーモアだ。


【タワマン文学を消費する感性の貧乏人による暴力】


タワマン文学が「人を小馬鹿にすること=文学」だとされた時代があった。

そしてその文学は、タワマンに住めない読者の憧れとコンプレックスの上に成立していた。


けれど、誰も知らない。

あのガラス張りの城には、誰かの生活から徴収された税金が流れ込んでいる。

それを知らずに笑う人々の無知こそが、都市の暴力だ。


タワマン住民を笑う“タワマン文学”を、

「これがわかる自分はセンスがいい」と信じて消費する人たちがいる。


でも彼らは、

そのタワマンがどう建てられ、何を壊し、誰の税金が流れ込んでいるかを何も知らない。

「ユーモア」だと思っているのは、ただの無知の免罪符だ。


しかも、彼らはタワマン民が地域社会を破壊している事実には目を向けない。

“町内会費は払わないけど、祭りには来る”ような寄生的関わり方を、都市生活のスマートさと勘違いしている。


地元コミュニティの責任や関与は切り捨て、

文化だけを「行ったことある風景」としてインスタに所有する。


それは、文化や場所を“思い出NFT”としてコレクションする態度だ。

責任も関与もない。ただ「知ってるふり」があるだけ。


もちろん、タワマン文学が面白いのはわかる。

でもそれを笑っている“あなた”が、

何に乗っかって、何を無視して、何を奪っているかを一度問い直してみた方がいい。


都市の死臭は、タワマンの中だけじゃない。

それを“見下ろしているつもりの視線”の方からも、確かに漂っているのだから。


【 暮らしと文化は、同義じゃない】


「良い暮らしをしてる人=文化を築く人」

そんな幻想が今の都市には蔓延している。

でも本当にそうだろうか?


高級マンション、フラットホワイト、電動自転車、英語教室。

そうやって“文化”っぽくパッケージされた消費の裏で、

本物のカルチャー──野良猫と語る夜、知り合いの八百屋との雑談、意味のない落書き──は全部消されている。


文化って、

誰かの余剰とか、偶然とか、無駄に育つものじゃなかったっけ?


【私は富裕層の娘だった──それでもこの幻想に踊らなかった】


正直に言うと、私は東京生まれで、富裕層の家庭で育った。

でも、家は“文化を愛する家”だった。

父は価格より人柄と繋がりで人に仕事を依頼したし、母は下町の老舗の味にこだわっていた。

スタバより喫茶店、デパートの化粧品カウンターにも行くけれど、町の美容室も大事にする。

母は“値段”よりも“相性”を信じていた。


だから、私は“金持ち”と“文化を破壊する側”はイコールじゃないと思ってる。


問題なのは、文化の地元じゃない人たちが、“文化のふり”をしながら金を投げて壊していくこと。

一瞬だけ“洗練された外部”を持ち込み、その街のリズムを狂わせる。

あれは移住じゃなくて、侵食だ。


東京の街に出てきた、“文化的”な消費に酔いしれる人たちを見たとき、

一つの確信だけが私の中に残った。


「この人たちこそが文化を破壊している」と。


彼らはシティポップを聴く。

田舎から出てきて、東京の“洗練”に溺れながら、

街の“汚さ”を笑い、“東京の空は低い”と文句をつけ、

そのくせ裏原宿や下北沢の“エッジ”だけを切り取って消費していく。


どこにも誠実さがない。


そして、彼らが“上京”で手に入れたのは、

文化ではなく「文化っぽい生活」だった。


【金はあった。でも、魂は売らなかった】


私は豊かさを知っていた。

でも、それを持って「他人を笑う快楽」に変えることはしなかった。


“育ちの良さ”って、そういうことじゃないか?

誰かの暮らしを踏み台にして笑わないこと。

汚れた風景の中に美しさを見いだす目を、手放さないこと。



富裕層として育った私は、

“文化を破壊しない側”にいると信じている。

それができるのは、金ではなく、視線だけだ。


【カルチャーの死はラップで上書きされる──ニーチェとSHINGO西成が死んだ日】


もう誰も怒ってない。

ラップは、ただのBGMになった。

意味のわからないライム、どうでもいいギャングスタムーブ、

悪ぶってるけど、“ちょっとゆるいです”みたいな抜け感の演出。


それって、なんの怒りだったの?

それって、誰へのメッセージだったの?


たしかに、ニーチェは言った。

「神は死んだ」と。

でも私が見る限り、SHINGO西成も死んでいた。

社会に抗ってたラップは、もうユニクロのスウェットみたいに誰にでも着れる“スタイル”になってた。


【マイクの先にあったはずの“叫び”は、もうない】


都市の貧困、格差、差別、階級。

それらは韻では表現されなくなった。

今では、それっぽいビートに乗せて

「高級クラブで飲んでる俺」

「ホーミーに囲まれてる俺」

「外車と女とパワームーブ」──

ただの自己プロモーションのテンプレがループしてるだけ。


わたしの死より文化が先に死んでいた。

誰もその葬式をあげなかったから、

狂気だけが手を合わせた。


【もうすべての電波はジャックされている──ブログという亡霊のレジスタンス】


もう、どこにも逃げ場はない。

テレビも、SNSも、地下アイドルの歌詞も、

子供が描くラクガキでさえ、プロパガンダに吸い込まれていく。


すべての電波はジャックされている。

思考を買い取られ、怒りをファッションにされ、沈黙を美徳とすり替えられる。



私がそれに気づいたのは、

精神科の病室で、点滴に繋がれていた時だった。


点滴が一滴ずつ、血に混ざっていく。

そのリズムが──モールス信号に聞こえた。


パッ パッパ パッパッ……

意味もなく耳に響いてくる、そのコード。


そこで、気づいたよね。


もうこの世界は、終わってる。

ブログはその“終わり”に抗うための、

最後の手書きの亡霊だ。


【Epilogue ──思想しか与えない】


パンも金も与えない。

思想だけを、少しだけ分け与える。

それが、このブログの目的だ。


もしかしたら、あなたが気づいてしまったら、

この亡霊は、もうあなたの中に棲みついているかもしれない。


【亡霊の囁き】


『君が笑ったぶん、文化は死ぬ』

タワマン文学を笑って消費するたび、

お前がファッションで通ってた喫茶店が潰れ、

かっこつけて吸ってたタバコも吸える場所がなくなり、

チーズ牛丼しか食えなくなる。


精神病でも、発達障害でも、タワマンでも、バズでも、

何ひとつ、お前を“特別”にはしない。


お前を特別にするのは、世界に抗う思想だけだ。

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