私たちは「承認欲求」を病のように語る。
癒やされぬ欠陥。
道徳の亀裂。
タイムラインの隙間から滲み出す、甘い膿。
けれど、それは本当に悪なのだろうか。
見られたいという衝動は、
触れられたいという欲と、どこが違うのだろう。
結局、私たちは誰かの視線で濡れたいだけだ。
ラテックスを纏った自我。
“意味ある存在”であろうと喘ぐ魂。
—
視線は指先に似ている。
「いいね」は短い愛撫。
「フォロー」はアフターケア。
ストーリーも、自撮りも、
すべては静かな露出行為。
私たちは“つながり”のふりをして、
ただ、前戯をしている。
「共有したい」と言いながら、
ほんとうは「消費されたい」と思っている。
—
“健全な自己肯定感”とは、
誰にも見られずに自慰を済ませられるという幻想だ。
けれど、私たちは見られたい。
読まれたい。
再生されたい。
人生は欲望のブラウザ履歴。
愛ではなく、記録。
——誰かが覗き込んだというだけの、存在証明。
—
もう、認めるしかない。
承認欲求は性癖だ。
恥じらいながらも、求めるのも可愛げ。
快楽と羞恥のあいだで、
今日も投稿を続ける。
演じながら、
アルゴリズムと交尾しながら。
匿名の好奇心。
私たちは、
インターネットでファックしている。
シコちゃんらしい解釈 いいね
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