最近、複数の言語で文章を書くようになって気づいたことがたくさんある。
言葉の構造そのものが、「愛し方」や「自分の感じ方」を決めている。
英語の愛:所有する“I”
英語では “I” が、つねに文の先頭に立つ。
“I think.” “I feel.” “I love you.”
そこでは「主語」が明確で、自我が責任を持つ。
愛すらも “I” の所有物のようだ。
でも日本語には、それがない。
「好き」「愛してる」——主語を言わなくても通じる。
“誰が?”と問われないまま、
感情だけが、静かに空気に溶けていく。
まるで、愛が主観から切り離される言語のように。
フランス語の愛は、祈りに近い
フランス語の “Je t’aime” は、文法的には単純だ。
でも、どこか神聖さがある。
“Je” は “I” と同じ主語なのに、
その響きには、英語ほどの自己主張がない。
“Je t’aime” は、祈りのように閉じている。
英語で “I love you” と声に出して言うとき、最も強く響くのは “love” ではなく “I” だ。
その “I” は、感情だけでなく行為そのものを所有する。
だから “I love you” には、自由と支配の責任が含まれている。
けれどフランス語の “Je t’aime” では、 “je” は小さく、 “t’aime” が息のように残る。
その音の違いが、すでに愛の方向を語っている。
修飾語は愛を冷ます。
不思議なことに、フランス語で “Je t’aime beaucoup” というと、
逆に熱が下がる。
愛してるではなく、「友達として好き」という表現になってしまう。
副詞 “beaucoup(たくさん)” をつけた瞬間、
愛は“測れるもの”に変わってしまうから。
フランス語では “beaucoup” をつけることで、
“詩的な情熱”が“社会的な好意”に変換される。
つまり、修飾語は愛を冷ます。
“めっちゃ好き”より、“好き”が強い。
“so much” より、“I love you” が深い。
本当に強い愛ほど、言葉が短くなる。
削ぎ落とされた文法の中にしか、
誠実な温度は残らないのかもしれない。
文法がつくる恋愛の哲学
・英語の愛は「所有」
・日本語の愛は「同化」
・フランス語の愛は「信仰」
それぞれの言語が、恋愛の哲学を決めている。
“Love” は動詞であり、行動であり、主語が責任を持つ。
“愛してる” は、主語が溶けた感情のかたまり。
“Je t’aime” は、ただの行為ではなく、存在の告白。
だから、
“I love you” は日常的でも、
“Je t’aime” は儀式のように重い。
愛の文法、沈黙の文法
愛は、文法のない動詞なのかもしれない。
説明すればするほど、嘘に近づく。
たぶん、“Je t’aime” が美しいのは、
何も足さない勇気があるから。
言葉の沈黙の中に、主観と他者が並んで立つ。
それが、最も静かで、最も正確な「愛してる」。
こういうのも、もっと書いて欲しい
返信削除