2025/10/06

一粒のチョコレート

母の知り合いに、少し変わった人がいた。

娘が私の兄の同級生で、母同士が学校行事をきっかけに親しくなった。

最初は明るくて社交的な人だと思っていたけれど、すぐに違和感を覚えた。


電話が毎日のようにかかってくる。

出ないと、呼び出し音が切れた瞬間にもう一度かけてくる。

話し方は早口で、声は高く、どこか甘ったるい。

笑っているようで、どこか切迫していた。


彼女の夫は医者だった。

ある日、彼女がぽつりと言った。

「お前なんか、俺が一筆書けば入院して出てこられなくできるんだからな、って言われたの」

冗談のように語ったけれど、目の奥には何も映っていなかった。


彼女がどういう人間であれ、その言葉を口にする夫の方にも、別の種類の狂気があった。

家全体が、どこか壊れているように見えた。


娘は学校でいじめられていたという。

頼んでもいないピザが届いたり、容姿をからかわれたり。

母親は娘も医者にしたいと口癖のように言っていたけれど、

娘はそういう重さを背負える子ではなかった。

一度見かけたことがあるが、要領の悪そうな子だった。


ある日、その母親がチョコレートの箱を持ってきた。

ハワイのお土産のような派手なパッケージ。

母が受け取って、リビングに置いておいた。


夜になって開けてみると、

中の一粒だけ、すでに食べられていた。

たぶん、口に合わなかったのだろう。

でも、それをそのまま“贈り物”として渡してくる神経に、

言葉にならない薄気味悪さを感じた。


母は電話をかけ、静かに言った。

「こういうの、いりません」

その一言で、すべての関係が終わった。


それ以来、電話はかかってこなくなった。

でも、私はしばらくそのチョコレートの箱を見つめていた。


誰かの口に触れたものを、

「これ、あなたに」と差し出すときの無邪気さ。


友達を急に家に泊めて「歯ブラシ貸して〜」と言われ、

予備の新品を渡したら、

「ありがとう、返すね」と言って返されたような、そんな違和感。


それは悪意ではない。

ただ、世界との境界を知らない人の仕草だった。

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