子どもの頃、ロサンゼルスで墓石屋の娘に会ったことがある。
太陽がやたらと明るくて、空は青くて、
あの街は死の話をするには、あまりにも似合わない場所だった。
その子は、何の前触れもなく言った。
「人間って、死んでも一回生き返る可能性があるんだって。
もし、遺体を焼いてる途中で目が覚めたらどうしよう。
めっちゃ怖くない?」
私はそのとき、知識もなく、反論もできず、
ただ「確かにそれは怖いな」と思った。
焼却中。
意識が戻る。
誰にも気づかれない。
今考えれば、そんなことは起きない。
心臓が止まって時間が経てば、脳も臓器も不可逆的に壊れる。
医学的にも、制度的にも、そこに“目覚め”の余地はない。
それでも、人間はミラクルという言葉が好きで、
だから通夜という時間があるのだと思う。
奇跡を待つためじゃなく、
「もう戻らない」という事実を、
生きている側が受け取るための猶予として。
理屈はわかっている。
でも、あの話は、今でもどこか嫌いじゃない。
世界には、完全に説明されすぎているものが多い。
死も、制度も、安心も、全部きれいに整理されている。
でも、あの話は、その整理された世界に、
一瞬だけ裂け目を入れる。
絶対に確認できない瞬間。
もしも、という想像。
知ってしまった気になる感触。
たぶん、陰謀論に惹かれるときの気分って、
こういう感じに近いのだと思う。
信じたいわけじゃない。
ただ、世界が完全ではないかもしれない、
その“手触り”が残る感じ。
あの話を聞いたのが、
ロサンゼルスだったのもよかった。
太陽がキラキラして、
死なんて存在しないみたいな街で、
いちばん暗い想像をしたこと。
それは今でも、
少しだけ怖くて、
少しだけ美しい。
2026年は、
どんな“世界”から目覚める感覚を味わえるのだろう。
感覚がまだ生きてることを願う。
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