2026/01/24

墓石屋の娘の恐怖

子どもの頃、ロサンゼルスで墓石屋の娘に会ったことがある。

太陽がやたらと明るくて、空は青くて、
あの街は死の話をするには、あまりにも似合わない場所だった。

その子は、何の前触れもなく言った。

「人間って、死んでも一回生き返る可能性があるんだって。
もし、遺体を焼いてる途中で目が覚めたらどうしよう。
めっちゃ怖くない?」

私はそのとき、知識もなく、反論もできず、
ただ「確かにそれは怖いな」と思った。

焼却中。
意識が戻る。
誰にも気づかれない。

今考えれば、そんなことは起きない。
心臓が止まって時間が経てば、脳も臓器も不可逆的に壊れる。
医学的にも、制度的にも、そこに“目覚め”の余地はない。

それでも、人間はミラクルという言葉が好きで、
だから通夜という時間があるのだと思う。
奇跡を待つためじゃなく、
「もう戻らない」という事実を、
生きている側が受け取るための猶予として。

理屈はわかっている。
でも、あの話は、今でもどこか嫌いじゃない。

世界には、完全に説明されすぎているものが多い。
死も、制度も、安心も、全部きれいに整理されている。
でも、あの話は、その整理された世界に、
一瞬だけ裂け目を入れる。

絶対に確認できない瞬間。
もしも、という想像。
知ってしまった気になる感触。

たぶん、陰謀論に惹かれるときの気分って、
こういう感じに近いのだと思う。
信じたいわけじゃない。
ただ、世界が完全ではないかもしれない、
その“手触り”が残る感じ。

あの話を聞いたのが、
ロサンゼルスだったのもよかった。

太陽がキラキラして、
死なんて存在しないみたいな街で、
いちばん暗い想像をしたこと。

それは今でも、
少しだけ怖くて、
少しだけ美しい。

2026年は、
どんな“世界”から目覚める感覚を味わえるのだろう。

感覚がまだ生きてることを願う。


——— ©️DSH / 2026

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