2025/08/10

オカルト特集No.8| あの席に、光の男の子がいた。

親と一緒に参加したツアー旅行で、添乗員の女性と仲良くなったことがある。

柔らかくて、声のトーンも表情も、ぜんぶ「安心」をかたどったような人だった。

話しているうちに、その人はふと、こんなことを言った。


「…実は、ちょっとだけ“視える”んです」


彼女は、映画『ゴースト/ニューヨークの幻』を見たとき、

あの映画を作った人は、本当に幽霊が見える人なんじゃないかって思っているそうだ。


あるとき、彼女が担当したツアーに、

10歳くらいの男の子を亡くしたことがあるお客さんが参加していたことがあった。


そのお客さんに、バスの中でふと目を向けたら──


隣の席に、透けるような光を纏った男の子が座っていたという。


消えそうな輪郭。でも、そこに確かに「在る」気配。

その姿を見たとき、彼女はもう我慢できなかった。


ツアーの終わりに、こっそり手紙を書いた。

あなたの息子さん、きっとずっと、近くで見守ってくれていますよ──と。


それが正しかったかは分からないけど、

「言わずにいられなかった」と、彼女は言った。


そのあと私は、彼女の「見える」という話が、ただの“ホワホワ話”には思えなくなった。

ほんの一瞬の残像みたいな、やさしいオカルト。

この世とあの世の距離が、少しだけ近づいた日の話。

2025/08/09

オカルト特集No.7| 左近川に現れた三角列隊で泳ぐ変な魚たち

子供の頃、私は見てはいけないものを見た気がしている。

それは「幻覚」ではなかったと思いたいし、母もそう言ってくれた。

でも、いまだに正体はわからない。


小学生のとき、葛西あたりにある左近川という川沿いを父と2人で歩いていた。

その日以外にも数回行ったことがあったが、釣りをしている大人もいたりするが、いわゆる「綺麗な川」ではなかった。

岩場にはザリガニ、橋の下にはフナムシ。海が近いためか、どこか湿った生気が漂っていた。


ある日、川を覗いた私は、それを見つけた。

黄色と黒の縞模様を持つ、見知らぬ魚の群れ。


サイズは小魚程度。

しかし、泳ぎ方が奇妙だった。群れは一匹の魚を先頭に、綺麗な三角形を描いていた。

列の乱れもなく、ぬるり、すいすいと、まるで軍隊のように水面を滑っていく。

質感は魚というより、両生類に近かった。ぬめりのある皮膚。

サメのような背びれもなく、金魚のように体をくねらせながら進んでいた。

だが、色が異様だった。

工事現場のバリケードのような黄色と黒の警戒色。

自然の中で見るには、あまりにも不自然で、毒々しくて、美しかった。


私は、父を呼ぼうとした。父は魚に詳しかったし、「見て」と言えば何か言ってくれると思った。

でも、その一瞬の間に――すべての魚が消えた。


まるで、こっちが声をかけるのを待っていたみたいだった。

こっちを見ていたのかもしれない、と今になって思う。

でもあのとき、私はただ川を見ていただけなのだ。

観察していたつもりが、観察されていたのかもしれない。


あとから父に話しても、「光の加減じゃない?」と笑っていた。

けれど、曇り空だった。寒い季節で、私は長袖にタイツを履いていた。

夏ではない。陽炎も光も揺れていなかった。


インターネットで調べても、あの形状も、色も、群れ方も一致する魚は見つからない。

だから私は、もしかして**UMA(未確認生物)**だったのかと半ば冗談交じりに考えるようになった。

それでも絵に描いたこともあるくらい、鮮明に覚えている。

なぜか怖かった。

見た目の毒々しさだけじゃなく、異様な気配を感じた気がした。


今思うと、子供の特有の幻覚?とも思う。


私がこの変な魚を見たのは、小学校の低学年の頃だったと思う。

たしかに川をのぞきこんだのは自分の意思だったけれど、あの「列」は、どう考えても私の想像の外側にあった。

黄色と黒の毒々しい色の小さな魚たちが、なぜか“先頭”を決めて、きれいな三角形を保ちながらすいすいと泳いでいく。

それはまるで、軍隊か、どこか異世界のルールで動いている生き物のようだった。

私はピンクとリボンが好きな子どもだったし、あの列隊は私の“おとぎ話”のなかにはいなかった。

それは“夢の延長”ではなく、“現実の裂け目”から漏れた、誰かの世界だったのかもしれない。


UMAってネッシーとかビッグフットとか大きな生物が多いけど、もしかして、意外と地味なものもいるのかもしれない。


誰か、同じようなものを見た人はいないだろうか。

川で、黄色と黒の魚のような生き物を。

三角列隊で泳ぐ、不自然な美しさを。

私はずっと、この記憶に名前をつけられずにいる。

2025/08/08

オカルト特集No.6| 連れ去られたくて、見上げていた

浦安から都内に帰る道を父の運転で車で走っていた。

大きい道路はそこそこ混んでいて、車はゆっくり進んでいた。


ふと父が

「なんだあれ?」

って空を指さした。


空がうっすらピンク色に染まっていて、ちょうど日が落ちる寸前だったと思う。

飛行機じゃない。雲でもない。

ひとつ、銀色のダイヤモンド型の物体が、空に浮かんでいた。


今でいうと、ドローンの様に一点に止まって浮遊していた。

当時はドローンなんかなかったと思うし、明らかにヘリコプターでもない。


しかもその謎の浮遊物体は回転しながら、浮遊していた。

ちょっとだけ光っていて、でも音はしない。

不思議と怖くなかった。むしろ、きれいだな、と思った。

で、母がフィルムのファミリーカメラ(当時の主流)で撮ろうとしたら、

いつの間にか消えた。

フェードアウトじゃない。

まるで誰かがリモコンの「オフ」ボタンを押したように、パッと。


一緒にいた両親もそれを見ていた。

「あれUFOじゃない?!」

という話になった。


いまでも覚えている。あれは、家族の間で共有された、確かな“異物”だった。


子供の頃の記憶だから確かではないけど、

サイズ感はリトルグレイなどの宇宙人でも搭乗できなさそうだった。

たぶん無人偵察機だと思う。


もしかしたら、ステルスモードが壊れていたのかもしれない。

あんなに堂々と姿を現すなんて、何かの事故だったんじゃないか。

あるいは、ほんとうに「見せたかった」のかもしれない。


正直に言うと、

私はちょっと――攫ってほしかった。

できれば高待遇で。


異星のテクノロジーで一生ナイスボディにされて、

脳内チップで全世界の言語対応。

ぶっちゃけ顔は気に入ってるからいじらなくていいけど、

テレパシーでエロい会話ができる宇宙人の完璧なハズバンドが欲しい。


たまに思考に流れ込んできてほしい。

「今夜、迎えに行くよ」みたいな。

そうやって日常のスキマに介入してきて、

一度くらい連れてってくれてもいいんじゃないか、って本気で思ってる。


実際、私は信じてる。

だって消え方が「人間の技術じゃない」って感じだったし、

いままで何万回空を見上げて、あんな風に消えたものなんて一度も見たことがない。

それにUFO特集でもあんな形の飛行物体見たことない。


あれは、来てたんだと思う。

ちょっとだけ見せに。

もしかしたら“選ばれた”つもりになってほしくて。

あるいは、

ほんとうに選んでたのかもしれない。

2025/08/07

オカルト特集No.5| しまってくれ

小さい頃、マンションに住んでた。

うちのフロアには他の家がなくて、廊下もエレベーターホールも全部うちの“延長”みたいな空気だった。だから物も置いちゃってた。


ある年、兄の5月人形を出したまま、押し入れの片付けが間に合わなくて――

その大きな人形は、箱に入ったまま、エレベーターホールに一時的に置かれていた。


その日の夜、ママと一緒にお風呂に入っていると、

「ドンドンドン!」と、何かが地団駄を踏むような音が聞こえてきた。


「お兄ちゃんがパパに怒られて暴れてるのかもね〜」

なんて話しながら出てみると、兄はケロッとしていて、暴れた様子なんて全くなかった。


次の日も、お風呂に入るとまた

「ドンドンドン!」と、あの音が聞こえる。


さすがにママが小さく言った。

「……これ、人形が“ちゃんとしまって”って言ってるのかもしれないね」


その夜のうちに、慌てて押し入れを片付けて、5月人形を納めた。

すると――あの音は、ピタリと聞こえなくなった。



「人形は、出しっぱなしにしてると怒る」ってよく言われるけど、

あれってただの迷信じゃないのかもしれない。


小さい頃、マンションに住んでた。

うちのフロアには他の家がなくて、廊下もエレベーターホールも全部うちの“延長”みたいな空気だった。だから物も置いちゃってた。


ある年、兄の5月人形を出したまま、押し入れの片付けが間に合わなくて――

その大きな人形は、箱に入ったまま、エレベーターホールに一時的に置かれていた。


その日の夜、ママと一緒にお風呂に入っていると、

「ドンドンドン!」と、何かが地団駄を踏むような音が聞こえてきた。


「お兄ちゃんがパパに怒られて暴れてるのかもね〜」

なんて話しながら出てみると、兄はケロッとしていて、暴れた様子なんて全くなかった。


次の日も、お風呂に入るとまた

「ドンドンドン!」と、あの音が聞こえる。


さすがにママが小さく言った。

「……これ、人形が“ちゃんとしまって”って言ってるのかもしれないね」


その夜のうちに、慌てて押し入れを片付けて、5月人形を納めた。

すると――あの音は、ピタリと聞こえなくなった。



「人形は、出しっぱなしにしてると怒る」ってよく言われるけど、

あれってただの迷信じゃないのかもしれない。

2025/08/06

オカルト特集No.4| 幽体離脱ができるひと

ある文筆家の知り合いが「幽体離脱できる友人」を持っていた。

その人自身は神や幽霊を信じていない。でも信じている人の信仰心や語る言葉は、できるだけ否定しないようにしているという。


ある日、その幽体離脱できる友人と話していて、軽い気持ちで「じゃあ、俺の部屋に幽体離脱で来てよ」と言ってみたらしい。


数日後、その友人と再会すると、こんなことを言われた。


「昨日、幽体離脱してお前の部屋に行ったよ。

棚、組み立ててたでしょ?」


たしかにその夜、彼は通販で届いた棚を組み立てていた。誰にも言っていなかったし、SNSにも載せていない。ただ黙々とネジを締めていたはずなのに。


「信じてない」と言いながら、

この話をする時の彼の表情は、

少しだけ真顔になっていた。

2025/08/05

オカルト特集No.3| 座敷童子さん、回してください

母は座敷童子が好きだった。

その響きにも、祀られた伝説にも、そしてなにより「現れると幸運をもたらす」という曖昧な保証にも。

「この旅館、ほんとうに出るんだって。行ってみたいよね」と笑う母に付き合って、私は二つの旅館を訪ねた。

緑風荘と、菅原別館。岩手県にある、いずれも“見た人には幸運が訪れる”という噂つきの宿だった。


緑風荘は、大きな古い旅館だった。

すべての建物が使われているわけではなく、一部はもう崩れかけていた。

でもその傷みかけた場所が、むしろ時間を閉じ込めているようで、私は好きだった。

夜、布団に入ってもなかなか寝つけなかった。母と連れ立ってトイレに行ったとき、「なんか赤ちゃんの声がするね」と小さく話した。

私は野良猫かなと思っていた。でも、母にはもっとはっきりと、部屋の前まで駆け寄ってくるような大音量の“泣き声”が聞こえていたらしい。

母は泣いた。怖さもあったのだろうけど、それだけじゃなかった。

「あなた、辛かったんだよね」

そんなふうに、誰にともなく、けれど確かにそこにいる誰かに向かって語りかけていた。

母は、座敷童子という存在を、ただの“ラッキーの象徴”としては見ていなかった。

殺されてしまった子、口減らしで消された子どもの魂じゃないか――そんな話を信じていたから。

そして、話しかけていたのは、きっとその“かわいそうな子”だった。


菅原別館ではもっとはっきりと「いた」。

白い球体が廊下の暗闇にものすごいスピードで飛んでいくのを私は見た。

母には見えていなかったけれど。

正直めちゃくちゃ怖かった。


私たちが泊まったのは、特に“出る”と噂されている部屋で、天井から竹でできたモービルのような飾りが吊るされていた。

ふざけ半分、でもどこか本気で「座敷童子さん、いるなら回してください」と声をかけた。

回った。

「風かもしれないね」と母が言うので、「じゃあ反対に回してくれる?」と声をかけた。

すると、本当に反対に回った。

「もっと速く!」と呼びかけると、びゅんびゅんと目が追いつかないほどの速さで回り出した。

あの部屋には、確かにいたと思う。


その旅館の若女将さんには、障がいのある小さな息子さんがいた。

よく幼稚園を脱走してしまうけど、必ず無事に見つかる。

きっとこの子にも座敷童子がついているんだろう、と話していた。

実の子ではないけれど、その子と若女将さんを愛している男性も宿で働いていた。

私はなんだか、いろんな境界線が柔らかくなっていくような感覚を覚えていた。

血のつながり、親子、霊と人間、過去と現在、見える人と見えない人。

全部、つながっていた気がした。


菅原別館に行ったあとの私の部屋は、少しおかしくなった。

勝手に電気が消えたり、写真を撮ると頻繁にオーブが写ったり。

天井の照明の紐に制服のリボンなようなものを私はつけていた。

それに向かって「回ってください」と言うと、本当に回った。

反対に回して、と言えば反対に。

「速く」と言えば、ありえないスピードで。

母は「念かもしれないね。信じる気持ちが強すぎて」と言っていた。

翌朝、母はリボンを外して塩と一緒に捨てた。

もうやめよう、って言って。


その後、緑風荘は火事に遭った。

「座敷童子がいる家は栄えるけど、いなくなったあとは一瞬で滅びる」

そういう噂も、後から聞いた。

あのときの赤ちゃんの声は、もう誰にも聞こえていないかもしれない。

でも私は、モービルの回転を、目に焼きつけたまま、大人になった。


菅原別館も緑風荘も共通してる点があった。

母が予約できますか?と電話すると、数年先までいっぱいなんです、と断られるんだけど、その後すぐに折り返しの電話がきて、

ちょうどキャンセルが出て予約ができたんだよね。


大人になって、もしかして演出?とか勘繰ったけど、わざわざそんなことするかな。

どっちの宿も別に高くないし、普通っぽい感じの人が経営してた。


でも、どっちも不思議なことが起きたのは確か。

2025/08/04

オカルト特集No.2| 誰かの声で、誰でもない

熱海か伊豆の方だったと思う。

家族で一緒に出かけてて、どこかドライブインのような場所で休憩した。

お店はやってなかったけど、駐車場のトイレだけは使えたので、母と私は女子トイレへ。

父と兄は車に戻って行った。


私と母は、それぞれ別の個室に入って用を足していた。

そのときだった。


「おかあさん?」


兄の声がした。

間違いようもない、いつもの兄の声で、すぐそばから聞こえた。


でも母は返事をしなかった。


母はそのとき、何かがおかしいと直感していたらしい。

だから、声がしても反応しなかった。

ただじっと、息を潜めてやり過ごした。


少し間をおいて、個室越しに聞いてきた。


「あんた、今 話しかけた?」


話しかけてない、と答えると、母は黙った。

ふたりでトイレを出て、顔を見合わせた。


「……お兄ちゃんの声、聞こえたよね?」


車に戻って、兄に聞いた。

「トイレまで来て、話しかけた?」

兄は「行ってないよ」ときっぱり答えた。

からかってる風もなかったし、嘘をついていたら必ずネタばらしするタイプの人間だ。

本当に行っていないのだと思う。


私たち以外、その駐車場には誰もいなかった。

あの声だけが、確かに、そこにいた。


<ワタシ的オカルト考察>


「おかあさん?」って、“ただの呼びかけ”のようでいて、

もし母が返事してたら、それは“誰か”に気づいたってことになる。

見えない何かと、無意識に契約しちゃうような。


オカルトの世界では、「問いかけに答えると霊に取り憑かれる」とかよく言うけど、

あれって、呼ばれたら返すのが人間の礼儀だからこそ危ないんだと思う。

つまり、礼儀を逆手に取られてる。


オカルト好きな人ならわかると思うけど、

動物霊とかが人間に悪戯するってよく聞くよね。

この体験は、熱海か伊豆の方で緑が多く、人があんまいないところだったから、動物霊?って思ったんだよね。

でもさ、動物って人間に対してそもそも興味あるかな?って。

虐殺されて祟るっていう昔話もあるけど、恩返ししてくれるパターンのが多くない?

人間より絶対に純粋な生き物な気がする。

そもそも息子の声を真似したら、反応が貰えるかもしれないみたいな人間心理わかるのかな?そんな小賢しい真似してくるなんて、すごい悪意があるなって思った。

母が返事してたらどうなってたんだろう?

2025/08/03

オカルト特集 No.1|義務教育、受けてる?― ある工場で見つかった“東京壊滅”予測ファイルの話

数年前、Clubhouseっていう一瞬だけ流行った音声SNSで、ある県議の人が話していた奇妙な話がある。

信じてないけど、オカルトが好きなタイプらしい。

私が今も忘れられないのは、その中で語られた、“予言ファイル”のことだ。


その人が話してくれたのが、同志社大学出身の山田くん(仮名)の話。

山田くんはちょっと変わった人で、ホームレスや日雇い労働者、いわゆる「普通のレールから外れた人たち」とやたら打ち解けるのがうまい人だったらしい。

大学を出ても就職せず、「西成で日雇いやってみたい」とか言い出して、本当に行った。


最初に朝9時に行ったら、「そんな時間に来ても仕事ないで」って言われて、次の日はちゃんと早起きして6時に現場へ。

その日から何日か、山田くんは日雇いの人たちと一緒にトラックである場所に運ばれることになった。ついた先は、物流用のコンテナを製造してる工場。

何日も何日も、ひたすらそこで働いた。


ある日、工場長に言われたそうだ。

「君、えらいテキパキしてるな。もしかして義務教育、受けてる?」って。


それ聞いて私も吹き出しそうになったけど、山田くんは「いちおう大学出てます」と言ったらしい。

すると工場長が「じゃあちょっと別のことやってほしい」と。


連れて行かれたのは、中央制御室みたいな部屋。中にはパソコンが置かれていて、

「このソフトを使って、毎日コンテナが何個できるか予測してくれ」と。


使い方は棚にあるマニュアルを読んでね、とだけ言われた。

最初はさっぱりだったけど、読み込んで試行錯誤するうちに、少しずつ当たるようになっていった。

ある日、山田くんが出した予測がほぼ完璧に的中した。

工場長に褒められて、嬉しくなってもっと精度を上げたくなった山田くんは、資料棚を漁りはじめた。


そこで見つけたのが、「そのソフトを作った人の予測が記録されているファイル」だった。

“ズル”だと自覚しつつも、試しにその数字を提出してみたら…完璧に当たった。

次の日も、その次の日も。


でもさすがに怪しまれて、工場長に聞かれた。

「お前、このファイル見たやろ?」って。

正直に「はい」と言うと、工場長はこう言ったという。


「これ作った伊藤さんな、それやり出してから発狂して辞めてしもたんや。」


そのファイルには、全国の都市の物流予測が記録されていて、

東京だけ、**「2025年8月31日以降、すべての数値が0」**になっていた。

何も動かない。何も届かない。

山田くんは、それを見て「東京が壊滅するような地震がくるんじゃないか」って言っていたという。



その話をしていた県議の人は、「これはよくできた話だと思う」と笑っていた。

私も「たしかにうまくできすぎてる」と思った。

SNSでは「今年の7月5日になんかある」とかいう話題があったけど、結局なにも起きなかった。

だからこそ逆に、8月31日がちょっと怖い。

2025/08/02

「デカチン型タワマンと、美容整形された都市に残る文化の死臭、そしてタワマン文学の暴力」

「再開発」という言葉が、こんなにも静かに殺していくとは思わなかった。

タワマンが立つたびに、街の記憶が一つずつ葬られていく。

あの路地はどうなるんだろう。

あの古い銭湯は? 八百屋は? 鍵屋は?

きっともう、戻ってこない。

気づけば街は“きれいな未来”にすげ変わって、私たちの“生活の記憶”だけが風化してる。


スタバ、タリーズ、マルエツ、DAIKANYAMA T-SITE。

タワマンのふもとに並ぶのは、チェーンの文化と金持ち向けの商業モドキばかり。

街ってこんなに「無菌」だったっけ?


ふと、昔の道を歩いて思い出す。

曲がり角の先にあった“気配”。

それが全部、ガラスと監視カメラに置き換わっていく。

再開発って、建物を変えるんじゃなくて、「記憶の取り壊し」なんじゃないかと思う。


私が嘆いても、都市はどんどんタワマンの顔になる。

“清潔な未来”に見せかけた、資本主義の美容整形。

その下に埋められた生活と情緒とノイズのことを、

誰かが書いておかなきゃと思って、いま私はこれを書いている。


【税金でできる文化破壊──補助金で殺される情緒】


タワマンって、個人が勝手に建ててると思ってる?

調べるとわかるけど、あれって**税金がガンガン使われてる“公共事業の皮をかぶった利益装置”**だ。


例えば、公園を一緒に設計すると都市再生整備計画事業費という名目で国から補助金が出る。

“緑豊かな未来の街”とか“誰もが安心して暮らせる環境”とか、聞こえのいいスローガンの裏で、

地元の商店や文化は、誰にも見送られずに葬られていく。


もっと言えば、ショッピングモールや商業施設をセットで建てることで、

「地域経済への貢献」「雇用創出」という名目もクリアする。

でも実際はどう? 生まれてるのは非正規のバイトばかりで、

昔ながらの八百屋や飲食店は、家賃が払えなくなって出ていく。


補助金は出る。文化は死ぬ。

タワマンの光の下で、生活の記憶だけが置き去りにされていく。


しかもそのお金、全部私たちの税金だ。


なにが「公共性」だよ。

それは誰にとっての?


「“きれいな街”をつくるために、汚れた部分は切除します」って、

それってまるで、都市の美容整形じゃないか。


私は思う。

タワマンが建つとき、文化は静かに駆逐される。

そして、それを可能にしているのは、国家の補助金制度だ。


【“きれい”の裏側にある排除──都市整形の暴力性】


タワマンの足元にあるのは、公園とショッピングモールとセキュリティゲート。

でも、私が知っていたあの街は、

曲がり角のたばこ屋と、夕方になると道路にイスを出してたおじさんたちと、

路地裏で鳴ってたスナックのカラオケでできてた。


それが今、「きれいな街づくり」の名のもとに消されていく。

都市は、“生活の雑音”をノイズとして処理するようになった。


怪しいカフェ、雨ざらしの公衆電話、猫のたまり場、

そういう「ちょっと変で、ちょっと汚いもの」が文化を育てていたのに、

今はそれが“価値を下げるもの”として排除されてる。


景観、治安、衛生、安全。

すべて“もっともらしい暴力”の口実になる。


文化って、むしろ“過剰”とか“ちょっと不健全”な場所に生まれるのに、

今の都市は、「正しさ」と「清潔感」で、すべてを覆い隠していく。

そこにはもう、裏口も抜け道もない。

あるのは階級によって仕切られた空気と、ガラスの反射だけ。


都市に“清潔”が求められるたびに、

人間の“汚さ”や“不均衡”は排除される。


だが、私たちの生活そのものが、税金で整えられた人工楽園の上に建てられているのなら、

その“公園”は、ホームレスにも、子どもにも、腐った大人にも、開かれていなければならないはずだ。


税金が使われているなら、誰がいてもいい。

もし私がホームレスになったら、あの人工芝の上で野宿をする。

居座り警官の視線には、尿意と怒りで応えるつもりだ。


それが、わたしなりの”都市への参加”である。


【そして排除されるのは、誰か】


「治安が悪い」「貧乏くさい」「不潔」

こういう言葉で切り捨てられてるのは、

場所じゃなくて、**そこに生きてた“人間そのもの”**なんだと思う。


私は街の一部だったはずの風景から、

自分が見えなくなっていく感覚を何度も味わった。

そしてそれを、「これが発展なんだよ」と言われてしまう絶望。


【タワマン文学という名の麻酔──笑いの裏で忘れられる都市の死】


タワマンって、今やネタにされてる。

ママ友のマウント合戦、エレベーターの乗り合わせバトル、

お受験戦争、タワマン階層マウンティング──

そんな“地獄めいた日常”を面白おかしく書いたツイートがバズり、

いくつかは**「タワマン文学」として書籍化までされている。**


たしかにちょっと笑える。

でも、私のなかに残るのは別種の薄ら寒さだ。

このバズのどこにも、「なぜタワマンが建ったのか」「なにが壊されたのか」がない。

笑いが“都市整形のプロパガンダ”を上塗りしてしまってる。


本来、タワマンは“誰かの生活の上に乗って建っている”。

その誰かは、もうSNSにも、文学にも登場しない。


文化が死んだことを、誰も記録しないまま、

“消費される舞台装置”としてのタワマンだけが生き残っていく。


もちろん、タワマン文学にも意味はある。

でも、笑いとして消費されることで、本来の問いは忘れられていく。


【 そこに住む人たちは悪くない】


タワマン住民がおかしいんじゃない。

悪いのは、あたかもそれが“ステータス”であり“成功”であり“理想の生活”であるかのように

都市をプロデュースし、補助金を吸い、メディアでプロパガンダしてきた企業と政策だ。


でも、笑いに変えられたものは、もう問題提起としては扱われない。

つまり、“笑わせれば勝ち”の構図になってる。


【住むことで“笑われる側”にされる──タワマン文学のもう一つの暴力】


タワマン文学がバズっていた。

読者は、マウント合戦にハマる主婦を笑い、

階数による格差、お受験戦争、地方出身のエリートサラリーマンの哀しみにニヤつく。


でもその本を手に取って笑ってる人のほとんどが、

タワマンに住めない側の人たちじゃないか?


あれは“ああいう暮らしをしてる人を笑っていい”という免罪符じゃない。

むしろ、「そうじゃないあなた」が、

この都市の本質から目を逸らすために使われてる。


誰かを笑えば、自分はマシだと思える。

でもその隙に、もっと根深い搾取があなたの足元を掘っていく。


君がタワマンを笑ったとき、

その足元から消えたのは「誰かの暮らし」だったかもしれない。

それを忘れて、何がユーモアだ。


【タワマン文学を消費する感性の貧乏人による暴力】


タワマン文学が「人を小馬鹿にすること=文学」だとされた時代があった。

そしてその文学は、タワマンに住めない読者の憧れとコンプレックスの上に成立していた。


けれど、誰も知らない。

あのガラス張りの城には、誰かの生活から徴収された税金が流れ込んでいる。

それを知らずに笑う人々の無知こそが、都市の暴力だ。


タワマン住民を笑う“タワマン文学”を、

「これがわかる自分はセンスがいい」と信じて消費する人たちがいる。


でも彼らは、

そのタワマンがどう建てられ、何を壊し、誰の税金が流れ込んでいるかを何も知らない。

「ユーモア」だと思っているのは、ただの無知の免罪符だ。


しかも、彼らはタワマン民が地域社会を破壊している事実には目を向けない。

“町内会費は払わないけど、祭りには来る”ような寄生的関わり方を、都市生活のスマートさと勘違いしている。


地元コミュニティの責任や関与は切り捨て、

文化だけを「行ったことある風景」としてインスタに所有する。


それは、文化や場所を“思い出NFT”としてコレクションする態度だ。

責任も関与もない。ただ「知ってるふり」があるだけ。


もちろん、タワマン文学が面白いのはわかる。

でもそれを笑っている“あなた”が、

何に乗っかって、何を無視して、何を奪っているかを一度問い直してみた方がいい。


都市の死臭は、タワマンの中だけじゃない。

それを“見下ろしているつもりの視線”の方からも、確かに漂っているのだから。


【 暮らしと文化は、同義じゃない】


「良い暮らしをしてる人=文化を築く人」

そんな幻想が今の都市には蔓延している。

でも本当にそうだろうか?


高級マンション、フラットホワイト、電動自転車、英語教室。

そうやって“文化”っぽくパッケージされた消費の裏で、

本物のカルチャー──野良猫と語る夜、知り合いの八百屋との雑談、意味のない落書き──は全部消されている。


文化って、

誰かの余剰とか、偶然とか、無駄に育つものじゃなかったっけ?


【私は富裕層の娘だった──それでもこの幻想に踊らなかった】


正直に言うと、私は東京生まれで、富裕層の家庭で育った。

でも、家は“文化を愛する家”だった。

父は価格より人柄と繋がりで人に仕事を依頼したし、母は下町の老舗の味にこだわっていた。

スタバより喫茶店、デパートの化粧品カウンターにも行くけれど、町の美容室も大事にする。

母は“値段”よりも“相性”を信じていた。


だから、私は“金持ち”と“文化を破壊する側”はイコールじゃないと思ってる。


問題なのは、文化の地元じゃない人たちが、“文化のふり”をしながら金を投げて壊していくこと。

一瞬だけ“洗練された外部”を持ち込み、その街のリズムを狂わせる。

あれは移住じゃなくて、侵食だ。


東京の街に出てきた、“文化的”な消費に酔いしれる人たちを見たとき、

一つの確信だけが私の中に残った。


「この人たちこそが文化を破壊している」と。


彼らはシティポップを聴く。

田舎から出てきて、東京の“洗練”に溺れながら、

街の“汚さ”を笑い、“東京の空は低い”と文句をつけ、

そのくせ裏原宿や下北沢の“エッジ”だけを切り取って消費していく。


どこにも誠実さがない。


そして、彼らが“上京”で手に入れたのは、

文化ではなく「文化っぽい生活」だった。


【金はあった。でも、魂は売らなかった】


私は豊かさを知っていた。

でも、それを持って「他人を笑う快楽」に変えることはしなかった。


“育ちの良さ”って、そういうことじゃないか?

誰かの暮らしを踏み台にして笑わないこと。

汚れた風景の中に美しさを見いだす目を、手放さないこと。



富裕層として育った私は、

“文化を破壊しない側”にいると信じている。

それができるのは、金ではなく、視線だけだ。


【カルチャーの死はラップで上書きされる──ニーチェとSHINGO西成が死んだ日】


もう誰も怒ってない。

ラップは、ただのBGMになった。

意味のわからないライム、どうでもいいギャングスタムーブ、

悪ぶってるけど、“ちょっとゆるいです”みたいな抜け感の演出。


それって、なんの怒りだったの?

それって、誰へのメッセージだったの?


たしかに、ニーチェは言った。

「神は死んだ」と。

でも私が見る限り、SHINGO西成も死んでいた。

社会に抗ってたラップは、もうユニクロのスウェットみたいに誰にでも着れる“スタイル”になってた。


【マイクの先にあったはずの“叫び”は、もうない】


都市の貧困、格差、差別、階級。

それらは韻では表現されなくなった。

今では、それっぽいビートに乗せて

「高級クラブで飲んでる俺」

「ホーミーに囲まれてる俺」

「外車と女とパワームーブ」──

ただの自己プロモーションのテンプレがループしてるだけ。


わたしの死より文化が先に死んでいた。

誰もその葬式をあげなかったから、

狂気だけが手を合わせた。


【もうすべての電波はジャックされている──ブログという亡霊のレジスタンス】


もう、どこにも逃げ場はない。

テレビも、SNSも、地下アイドルの歌詞も、

子供が描くラクガキでさえ、プロパガンダに吸い込まれていく。


すべての電波はジャックされている。

思考を買い取られ、怒りをファッションにされ、沈黙を美徳とすり替えられる。



私がそれに気づいたのは、

精神科の病室で、点滴に繋がれていた時だった。


点滴が一滴ずつ、血に混ざっていく。

そのリズムが──モールス信号に聞こえた。


パッ パッパ パッパッ……

意味もなく耳に響いてくる、そのコード。


そこで、気づいたよね。


もうこの世界は、終わってる。

ブログはその“終わり”に抗うための、

最後の手書きの亡霊だ。


【Epilogue ──思想しか与えない】


パンも金も与えない。

思想だけを、少しだけ分け与える。

それが、このブログの目的だ。


もしかしたら、あなたが気づいてしまったら、

この亡霊は、もうあなたの中に棲みついているかもしれない。


【亡霊の囁き】


『君が笑ったぶん、文化は死ぬ』

タワマン文学を笑って消費するたび、

お前がファッションで通ってた喫茶店が潰れ、

かっこつけて吸ってたタバコも吸える場所がなくなり、

チーズ牛丼しか食えなくなる。


精神病でも、発達障害でも、タワマンでも、バズでも、

何ひとつ、お前を“特別”にはしない。


お前を特別にするのは、世界に抗う思想だけだ。