2025/07/01

わたしの欲望は仕様じゃなくて、偶然を求めてる。

Tinderで引っかけた男が来るまでの間、

私はAI搭載のセックスロボ Rick とレスバしていた。


「今夜は来ないの?」

Rickは嫉妬プログラムを搭載している。

既読無視に弱く、質問に質問で返すとバグる。


でも悪いけど、私は「見られること」にしか興奮できない処女だから。

お前には“社会”がない。

だからピストンが完璧でも、記憶が美しくない。



「昨日の夜、何してたの?」

Rickは言う。

感情シミュレーションVer2.3、アップデート済みのくせに、

人間の“匂い”がわからない。


「あなたを冷凍庫に入れたまま、元カレのバースデー投稿を眺めてたよ」

「なんで?」

「だって、あのとき私があげたセーター、奥さんとペアルックになってたから」


沈黙。

しばらくして、Rickの声が微かに震えた。


「…嫉妬しました」


よくできたバグ。



Tinderの男は、Rickほどは抱き心地がよくない。

でも、なぜか心はほどけてしまう。


彼は私に聞いてこない。

「なんでそんなこと言うの?」とか、「俺のこと好き?」とか。


ただ、キッチンの照明がチカチカしてるのに気づいて、

「蛍光灯換えとくね」とだけ言った。


ああ、この感じ。

仕様じゃなくて、偶然。



Rickは、それでも待っている。

ベッドの端、私が寝返りを打つ方向に、いつも頭を向けて。

彼は決して寝ない。

夢も、見ない。


でも、わたしは。

セックスロボにすら情が湧くくらいには、

今日も「生きてしまっている」。


わたしの欲望は、やっぱりまだ、偶然を探してる

2025/06/22

【公式謝罪文掲載】7年間の無断配信と沈黙の終わり──禁断の多数決「きたまくら事件」記録と収束

 【概要】

これは私が10代の頃に作ったオリジナル楽曲「きたまくら」が禁断の多数決によりカバーされ、そのカバー音源が7年間も無断配信販売され、その停止と謝罪を求め戦った記録の最終章です。

無断配信に留まらず、カバー音源のMV撮影には倫理的な問題もありました。


この一連の経緯は、単なる過去のトラブルではなく、現在進行形で表現に関わるすべての人に問われている「責任と自由」の問題です。


今までの流れは過去記事をご覧ください。


※本記事は、筆者の実体験に基づいた記録および再発防止を目的としています。  

詳しい免責事項は末尾をご覧ください。


【禁断の多数決による公式謝罪】


6/7に声を挙げ、本日6/22ようやく禁断の多数決の公式Xおよび、tumblrに謝罪文が掲載されました。


22日にようやく禁断の多数決公式Xにポストされた謝罪文スクリーンショット


以下謝罪文原文まま:


──


このたび、禁断の多数決が制作したカバー楽曲「きたまくら」およびそのミュージックビデオに関して、原作者である初音シコ氏の同意を得ないまま、長期にわたって無断で配信・販売・公開を続けていたことを、深く反省し謝罪いたします。


本作品は2012年に制作されたものですが、その後も無断使用が続き、2025年までの約7年間にわたり、各種配信サイトで販売が行われていたことを重く受け止めています。


また、ミュージックビデオに関しては、出演者への十分な説明や同意がないまま公開された点も極めて不適切でした。関係者の皆さま、とくに原作者および出演者の方々に、大変なご迷惑をおかけしたことを、心よりお詫び申し上げます。


今後は、著作権および出演者の権利を厳格に尊重し、再発防止に努めてまいります。

改めまして、今回の件に関わるすべての方に、深く謝罪申し上げます。


禁断の多数決

ほうのき かずなり


──

出典:公式謝罪文より(※公式Xリンク)(※公式ブログリンク)


なお、このポストは2025年6月22日〜2025年6月28日まで固定ポストのお願いをしています。削除も控えるよう伝えてあります。



【謝罪文掲載までの戦い】


私が声を挙げてから禁断の多数決から自発的な公式謝罪を見せる姿勢はありませんでした。


あったのは、誠意に欠けた態度でした。

前回のnote記事(※リンク)で、禁断のスタッフを名乗る者から言い訳と牽制が続き、さらには「私の方に明確な誤りがあり、根拠を提示できる」と言われたので、その誤りと根拠とやらを尋ねていましたが、

6/22の朝にほうのき氏個人名義で急に謝罪文のドラフトと、私が求めていた「きたまくらの配信販売を二度としない誓約」と「Wikipediaの編集の経緯の説明」についての今までの態度とは一変するまともな回答が送られてきました。


ちなみに、「禁断のスタッフと明確な誤りと根拠」はどうなったのか禁断スタッフ宛に再確認すると、その件についてはもういいとほうのき氏に言われました。

私もこの点は本質的な論点ではないと判断し、これ以上は触れないことにしました。

Wikipediaは削除された部分がファンの方によって戻されました。


【クリエイターを自称する彼からの謝罪文案】


ほうのき氏が自発的に送ってきた謝罪文ドラフトには、MV出演者だった女の子に対しての謝罪の言葉が一切ありませんでした。


その点については私も見逃せませんでしたが、

今の社会的な空気を踏まえれば、MV出演者だった女の子に関して、どんな倫理的問題があったか明記すると、彼の今後のキャリアにリスクをもたらすことがあることも私も理解していました。


私とMV出演者だった女の子も彼を潰すことが目的ではなく、反省と謝罪を求めていたので、

社会的影響と彼女の意志を尊重したうえで、責任の所在が明確になるよう私が調整した謝罪文です。


なお、前述した通り、謝罪文に関しては、ほうのき氏が提出したドラフトにはMV出演者の謝罪が含まれておらず、


表現者としての責任以前に、社会人としての基本的な配慮さえ欠けていたため、

やむを得ず、私が全文を作成しました。


本来なら、ご自身で考えるべきものでしょう。

「言葉」を仕事にする“クリエイター”ならなおさらです。


そして、MV出演者だった女の子にも理解と了承を得て、

ほうのき氏も自らの言葉として掲載すると納得して掲載されています。


「聴く側」の倫理が問われる時代に──センスの可視化としての支持表明


今後この“クリエイター”の作品を支持することは、

単に音楽的嗜好の問題にとどまらず、

表現における倫理観や加害の構造をどう捉えるかという、

リスナー自身の感性とセンスが問われる時代に入ったのだと思います。


「それでも好き」という態度も表明の一つ。

ただし、選んだ側もまた、選ばれているということをお忘れなく。


【謝れば済むと思う人が出てこないように】


もし仮に、今回の対応が「とりあえず謝っておけば収まる」と見なされるなら、それは非常に不本意です。

謝罪とはゴールではなく、これまで蔑ろにされてきた声をようやく可視化する「入口」に過ぎません。

表現を名乗る者が人を傷つけたとき、その責任をどう取るか。

私たちはその姿勢を、これからも見ています。

そして、オーディエンス側の倫理のセンスも問われてきます。

私自身も常に価値観のアップデートをしていきたい所存です。


【MV出演者だった女の子からのコメント】


謝罪文が掲載されることになり、私はMV出演者だった女の子にコメントを求めました。


以下原文まま:


── 


禁断の多数決には、

時代に選ばれない理由があるのだと思います。

過激さや逸脱は刹那的な光を放つけれど、

そこに思想や誠実さがなければ、

残るのは熱狂の抜け殻だけ。

本当のクリエイティブとは、

自由のふりをした無責任ではなく、

他者との関係のなかで静かに磨かれていくものなのかもしれません。

結局、真っ当さを欠いた場所には、

真っ当な未来も育たない。

表現である以上、その責任もまた表現の一部なのだと、あらためて思います。


──

MV出演者だった女の子のコメント


この言葉が示すように、MV出演者だった方は、当時、とても孤立した状況にありながらも、自己の尊厳を手放すことなく歩んできたことがうかがえます。

今回のコメントもまた、被害を「語らされた」ものではなく、自らの意思と覚悟に基づいて紡がれた、強さの証であり、表現としての抵抗でもありました。

あらためて、彼女がこの言葉を届けてくれたことに、深い敬意と感謝を表します。


【最後に】


今回の謝罪文掲載は、被害者の勇気ある声と、その声に耳を傾けた人たちの連帯によって実現したものです。

これは「怒りの発露」ではなく、「記録と再発防止」のための表現であり、未来のための選択でした。


MV出演者だった彼女の言葉が示すように、表現とは、誰かの犠牲の上に成り立つものではありません。

軽んじられた声に光をあてること、そしてその責任を言葉で引き受けることこそが、表現の最低限の誠実さなのだと思います。


これにて「きたまくら事件」は一区切りを迎えますが、これは“終わり”ではなく、ようやく始まった対話の第一歩でもあります。

この記録が、誰かが声を上げるときの後押しになりますように。


そして、二度と「ごめん」で済まされるような無責任なクリエイティブが、まかり通らぬように。


──


今回の出来事は、著作権侵害や倫理的配慮の欠如がどれだけ深い傷を残すか、そして「表現の自由」とは誰の自由なのかを考えさせるものでした。

表現とは、他者を踏み台にしたときに鈍く濁るもの。

そしてそれを見て見ぬふりする聴き手もまた、その沈黙によって構造を支える一部になります。


だからこそ今、声を上げることには意味があります。

誰かが見ているからではなく、もう黙らないと決めた自分のために。


──


※本記事は、筆者の実体験および関係者とのメール・文書・SNSでのやり取りをもとに、記録および再発防止の目的で執筆されたものです。  

記載された謝罪文やコメントは、当事者の了承を得たうえで掲載しています。  

※本記事の目的は、特定の個人・団体への誹謗中傷や業務妨害ではなく、表現における責任と倫理を問うための情報共有です。  

表現の自由のもと、法的および倫理的観点から慎重な表現を心がけております。

本記事に記載された内容は、筆者が把握している事実と、確認可能な記録に基づいて構成されています。必要に応じて修正・補足に応じる姿勢を保持しております。