春画ールさんという江戸時代の性文化研究家の
この記事を見て、大学生の時にふざけて書いた文章を思い出した。
大したものじゃないのに、自分で冊子にしてゴールデン街の地獄のデスマッチさんに30部くらい置かせてもらった、、、そのころはZINEとか作ってみたくて。。。
今読むと、自分でも?なところがあるので、暇つぶしに読んでください。
イクとカム
〜オーガズムに達する時、なぜ日本語ではイクで英語ではカムなのか〜
インターネットなどによりメディアが多様化した現在、どんな人でも英語コンテンツに触れる機会は前より増えたことだろう。英語があまり得意でなくても、ハローと同じ感覚のように、オーガズムに達するとき日本語ではイクで、英語ではカムということを知っている人は少なくないだろし、それと同時にこの表現の違いについて疑問を抱いている人も少なくないようだ。本稿では、その疑問について議論したいと思う。
・イクとカムの研究
先ほど述べたように、このテーマに疑問を抱いている人は少なくないようだ。しかし、テーマがテーマだけに、あまりまともに議論されていないらしい。ネットで検索してみると、このことについて言及しているものは見られるが、ちゃんとした回答はなされていない。しかし、「ぐろぐろ」(ちくま書房)などの著書で知られる、風俗ライターの松沢呉一氏が著書「えろえろ」(ポット出版)でこのことについて言及している。
・松沢氏の説 クリトリス文化・膣文化
松沢氏は日本人女性とアメリカ人女性(キリスト教文化圏と比較したようだが、ここではアメリカ人女性と表記されている)のエクスタシーの違いにによって、<イクカム>の違いが生じていると述べている。というのは、日本にはクリトリスの存在意義を高く評価する文化があり、それは「サネ」など、クリトリスを表現する言葉が江戸時代に大量に見られることからわかるという。一方、キリスト教圏では、生殖と直結しない純粋な快楽気管であるクリトリスを蔑ろにする膣文化が長く続いた。そして、氏が行ったアンケートによると、クリトリスオーガズムは「行く感じ」、膣オーガズムは「来る感じ」という感覚があるという。こう言った感覚とクリトリスを重視した日本文化の中で、「イク」という表現が定着し、今に至ると考えているらしい。
これを読んで、私は一旦肯いたものの、結局はオーガズムの質ではなく、エクスタシーが「来る感じ」「行く感じ」という感情論的なものに見えてきて、納得がいかなくなってしまった。
それに小説家であり、性風俗研究家の高橋鐵氏が設立した<日本生活心理学会>刊行の読者性体験手記タイプの性生活リポートを読むと、昭和20年代頃は「イク」ではなく、「気を遣る」という表現が使われているのがわかるので、クリトリス重視文化の根付きは確かなものだとは言えないと考えられる。
それで思ったのが、英語の文法的なニュアンスにより、ただこのような違いが生じているのではないかということである。
・ニュアンスの違い?
英語ではcomeとい表現は相手がいるところに行く時、goは相手がいない時や相手から離れる時、どこか自分の目的の場所へ行く時に使われる。しかし、日本語ではどちらとも「行く」という動詞を使う。
しかし、ここでもまた疑問が浮かび上がってくる。英語では相手の有無、また相手がいる場所によってcomeかgoになるなら、オーガズムに達した時、私たちはどこへ向かっているのだろうか?
そこで私は、日本語が上手に話せる英語のネイティブに聞いて確認してみることにした。
・ネイティブに聞いてみる
アメリカ人の友人は、「真面目に考えたことはなかったし、別に文法的な違いではないと思う。」と言った。しかし、面白い答えが返ってきた。オーガズムに達する時「<日本人は仏壇に行き、アメリカ人はキリストのところへ行く>」と聞いたことがある、宗教による違いなのではないか、と答えたのだ。
・オーガズムの向こう側 宗教観の違い?
流石にこの答えはただのジョークに思えるが、日本語で「イク」の語源は「逝く」からきているという説もあるし、イクことを「昇天」と表現することもある。それに英語でも「heaven」という言葉が比喩で使われる。
しかし、キリスト教では、快楽のみを目的とするセックスは良とされていないので、宗教観の違いによるものとは考えにくい。
この違いを検証するため、イスラム教圏出身のアラビア語話者に、イク時に、アラビア語ではなんというのか聞いてみたところ、「わからない」「何も言わない」というひとが多かったが、「حأفضي(読み:バッファディ)」という表現があるということが分かった。しかし、この表現はスラング的なものでオフィシャルなアラビア語ではなく、意味も日本語にすると「出す、空にする」というものらしい。地域にもよるが、イスラム教は性に対する戒律がキリスト教よりも厳格なので、セックスに宗教観があまり影響しないのもあると思われる。
・我々の目的地
というわけで、この問題の原点、セックスについて考えてみる。セックスというものは、まず二人以上でないと成り立たない。セックスの目的は、子づくり、コミュニケーション、快楽など人によって様々である。しかし、大多数の人がオーガズムに達することを考えて、今日セックスをしているのではないだろうか。そう考えると、私たちはオーガズムという目的地にイき、英語話者はカムしているのではないかと思う。